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ナローポルシェや、M-HOUSEをとりまく色々な事柄を綴った不定期更新のエッセイです
第269話 昭和40年代後半の思いで−5
トキワ気化器 その5

オートバックスやイエローハットといったカー用品専門店に行くと、HKSブランドのいろいろな商品を目にします。知られた存在ながら、ウィキペディアにボルトオンターボの全国的メーカーなどという記述はありましたが、HKSとしての書き込みはありませんでした。今日はHKSの誕生したころのお話です。
 現在このようにブランドとして確立した後付けカー用品(あえてそういいます)のHKSは、長谷川さんご兄弟がはじめたものです。当時お兄さんの長谷川さんが月に一度トキワ気化器に立ち寄られていました。毎日のように通っていた私も毎月お会いしました(笑)。確かお父さまのお体の具合で、月に一度東京の大学病院で薬を受け取って、その帰りにトキワ気化器に寄られていたと記憶しています。その時いろいろな話を聞きました。
 HKSの由来は、H(長谷川)K(確かお父さまのお名前、申し訳ありません忘れました)S(スペシャル)とお聞きしました。長谷川さんは、HKSを始める前はヤマハ発動機に勤めておられ、トヨタのツインカムの開発をしていました。2T−Gや3M、18R−Gの話はとても面白く伺いました。当時のトヨタのDOHCエンジンのヘッドにはヤマハの音叉のマークがあったのをご存知ですか?。開発はヤマハがしていたのです。 HKSがスタートしたころは、後付けボルトオンターボのキットを売っている会社という感じでした。富士宮の本社、工場(今の感覚からいうとちょっと大きな倉庫のような感じ)に行くと、立派なというか不釣り合いなほどのエンジン計測の設備がありました。トキワの社長さんから、あいつはヤマハで使っていたのと同じのを揃えたんだと聞きました。そこには2000GTの3Mを2600にしたものや、お客さんが持ち込んだクルマにターボを装着したものがありました。トヨタもありましたが、日産のL型も多かったです。たぶん、ボルトオンターボの雑誌記事(当時モーターマガジンが盛んに取り上げていた)に、日産車のL型が当初あったからだと思います。
 そういった後づけチューナーの仕事をしていたのですが、町のチューニング屋さんよりメーカーに近い感じがありました。削ったり、新たに作るパーツはみな図面を起こしてから作業に入っていました。ただ後から考えてみると、ラジエターホースの遮熱(ターボチャージャーの熱から守る)のためにとられていたやり方が、アルミ箔(ホイール)を巻きつけて針金で丁寧に留めるという、妙にアマチュアっぽい(効果と手段とも)感じがしたのも確かでした。
 当時の私には、HKSが今のような会社、形態なるとは予想もできませんでした。長谷川さんご兄弟の商売が上手だったのだと思います。   今だから言えますが、富士宮有料道路はHKSの格好のテストコースでした。ターボ装着車やチューンをしたクルマのテストをしていました。とてもここで言えないスピードでした。昔の思い出です。




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