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ナローポルシェや、M-HOUSEをとりまく色々な事柄を綴った不定期更新のエッセイです
第350話 久しぶりに再開です
今日は8月15日です

 テレビで朝から71回目の終戦記念日というニュースや話題が取り上げられています。
 これからお話しすることは私見ですが、あることに気がつきました。終戦の日に限らず、東京大空襲の3月10日や沖縄戦の実質的終了の6月20日(23日)のテレビの取材を受けておられる方々が、戦争は悲惨である、あのようなことは二度と繰り返してはならない、この尊い平和を私たちは守っていかなければならないと言われます。まさにその通りです。
 憲法記念日の5月3日のテレビでは、不戦の誓いである第9条を守り抜かなければならないという映像が流れます。憲法9条のあるなしにかかわらず戦争をしないという考えは日本国民として当然の共有認識です。
 日本人が戦争はしてはならないという認識を持つにいたったのは、第二次世界大戦(総称)において国の内外で国家消滅に至ると思われるほどの死者、破壊、人間性を否定する想像を絶する体験を経験したからに他ならないと思います。それは、NHKスペシャルの何番組かを見れば、第二次世界大戦を経験していない者をして戦争が引き起こす酷さを理解させ得る、悲惨の極致と言っていい膨大な悲劇を戦争が生じさせるからです。
 そこから日本人は、地球上で平和を望まない民族はいない、平和を望まない人はいないと考えています。そのことに間違いはありません。しかし、そこに悲惨さを感じる温度差、程度の差のあることに私たち日本人は気づいていません。
 話は変わりますが、ハリウッド映画のインディージョーンズシリーズの「クリスタルスカルの大国」の冒頭で、主人公のインディアナジョーンズがネバダの核実験場に迷い込み、核実験のカウントダウン直前で大きな冷蔵庫(鉛が使われているから放射能の遮蔽に優れているという設定で)に隠れて、大きく吹き飛ばされるが難を逃れるというシーンがあります。広島の平和記念資料館を訪れたことのある方なら(でなくても)、このシーンがあまりに核兵器というものを軽く見た歪曲したものであることに、いくら娯楽映画といえども怒りすら感じるのではないかと思います。また、一般的アメリカ人の核兵器に対する認識がこの程度であるとしたら、地球上で平和を望まない民族はいない平和を望まない人はいないという日本人の共通認識とは、あきらかに差があると言わざるをえません。
 アメリカを例にとれば、自国本土が敵の大規模な攻撃を受けたのは、1941年12月7日の真珠湾攻撃と2001年9月11日の一連の航空機ハイジャックテロの二つしかありません。両攻撃とも、多大な犠牲者が出ましたが、どちらも数千人規模でありました。
広島二十数万人、長崎七万人、東京大空襲3月10日のみで十数万人、犠牲者の数の違いが平和の希求度に差を生じさせるとは思えませんが、人生をその時点で奪われた人の数の違いは現実です。
 私たち日本人は、平和を心から望む国民民族であることに間違いありません。その平和が、恐ろしいまでの膨大な過酷で悲惨な体験から実現されていると知っている国民民族であることも間違いありません。地球上を見渡したとき、同じ平和を希求する国民民族でも、私たち日本人と違いがあると、それが錯覚ではなく現実であると認識する必要があると気がつきました。




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