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ナローポルシェや、M-HOUSEをとりまく色々な事柄を綴った不定期更新のエッセイです
第80話 M-HOUSEでニ度目です
好きなことでお金をいただくようになったのは

私は子供の頃から海外旅行に憧れていました。ずいぶん長い間やっていたテレビの番組で「兼高かおるの世界の旅」というのがありました。毎週日曜の朝、それを見ながらあんなところに行ってみたいなあ、といつも思っていました。
生来の探究好きと言いますか、わからないことはとことん調べると言うのか、そういった性格から海外旅行のことをいっぱい調べました。そしてその成果を試すべく高校二年の夏、三度目となる海外旅行にヨーロッパ旅行を計画しました。その時のコンセプトは所謂団体旅行、「JALパック」より安くあげて、なおかつ豪華な旅行をするというものでした。そこのところをちょっと詳しく説明すると、当時1970年代初頭の海外旅行自由化直後(自由化は1964年)は、個人でヨーロッパを旅行する(初任給が3、4万円?のころ)というのはまず考えられないことで、個人で旅行すればエコノミークラスの飛行機代だけで往復50万円強する時代でした。そんななかでは、安くしかも安全に海外旅行をするには、団体旅行に参加するのが一番の時代でした。そこで考えたのが、パック旅行の一番安い(同じ日程、日数で)のより費用を安くあげて、なおかつ、いいホテルに泊まって、有名なお店でご飯を食べられたら、プロの作っている旅行より勝っているのではないか、それを実現出来たら結構面白い、自慢出来るのではないかと考えたわけです。さらに、当時の大学生の安上がり旅行でも、パック旅行より費用がかかるというのはあたり前でしたので、挑戦してみる価値はあると思ったのです。
1970年代はじめでは、まだディスカウントチケットというものは売っておらず(もしくは極限られていた)、安くヨーロッパに行くには新潟から船でソ連のナホトカに渡り、そこからシベリア鉄道で一週間弱かけて大陸横断するか、アエロフロートソビエト航空(モスクワ経由)の安い切符で行くか(それでもかなり高い)の二つしかありませんでした。高校二年の夏休みといっても、一部の人は受験に向かって猛勉強をしており、予備校の夏期講習にも行かなくてはならなかった私には往復で二週間を必要とするナホトカ経由ははじめから選択枝に入らず、今もそうですが、怪しい航空会社は乗りたくないというのがあって、はじめからJALかヨーロッパの航空会社で行こうと決めていました。
そこで考えたのが、企業や団体が実施しているヨーロッパ視察、研修旅行の行きと帰りの飛行機だけ便乗させてもらおう、売ってもらおうと考えた訳です。なかなかそう都合よくは見つかりませんでしたが、今のBA(ブリティッシュエアウエイズ)、当時はBOACといいましたが、の席を見つけました。東京/ロンドン/ローマ(ここまで一気に)と帰りのロンドン/東京の航空券(懐かしい今は無きアンカレッジ経由)をかなり安く手に入れました。これで旅行の骨格が出来た訳で、スタートはローマ、そこから各都市を巡ってロンドンまでの旅程を考えることになりました。問題はその移動手段で、パック旅行はバス鉄道航空機もしくはそのミックス、小人数旅行は、普通は外国人向けの鉄道パス(ユーレイルパス)を購入して鉄路を使うというのが一般的でした。それは、期間、クラス、年令によって違いがあり5万円から9万円しました。そこを何とか安く上げようと考えました。
航空運賃の決まりのひとつに次のようなものがあります。例えば、東京からニューヨ−クまでの切符を買うと、バンクーバーやバンフ、トロントに寄り道しても料金は変わらない(未検証)のです。それは、ニューヨークまでの実際の飛行距離と切符上の距離との間に差があり、その範囲内に納まるならば何度途中下車(正確には降機という)しても航空料金は変わらないのです。その仕組みを利用して、実際にはナポリ(ローマからナポリまでは列車移動)/ローマ/ミラノ/ヴェニス/ジュネーブ/パリ/ロンドンという旅程を組みました。さらに、当時ユース割引きというのがあり、ヨーロッパに於いて予約、切符を購入すればそれは適応され、それも合わせて使うとその航空運賃は27,000円位でした。これを確かめるために、何度か学校の帰りに霞ヶ関ビルの前にあったアリタリア航空の東京オフィスによって計算してもらいました。カウンターの女の人も、高校生の坊やがこれこれこういう経路で途中降機をくり返してもマキシマムマイレッジに収まるかと聞いてきたのが面白かったのか、懇切丁寧に対応してくれました。飛行機の方が高いと思われていたので、一種盲点であり、往復の航空券を購入した日本の旅行社の人、ローマ市内のアリタリア航空のオフィスの人にほめられました。
これ以外にも、オーディオ好きだったのでロンドンの秋葉原と言われる場所を英国政府観光局で聞いてカートリッジやレコードを買ってきたりと出来る限りの事前準備をしました。
こうして、すべて自分で計画した海外旅行をしたのは1972年の夏でした。旅行は事前準備も本番も帰ってきた後も実に楽しいということを満喫した、その後に大きな影響を与えた出来事でした。
クルマに関して言えば、もうずっと前からクルマ好きだったので、ヨーロッパに行ったらいろいろなクルマが見られると期待して行きましたが、なぜかナローを見かけた記憶がありません。今ぱっと思い出すのは、ジュネーブで見た茶色(ポルシェでいえばセピアブラウン)のアルファロメオモントリオールとタクシーで乗ったフィアット124や128の足の良さ、こんな大衆車でもこんなにいいのかと言うことと、パリで入ったシャンゼリゼのルノーのショールームでのこと、ロンドンタクシーに乗ったことなどなどでした。

このことから何年かして、就職活動をすることになり、自分には何が向いているか考えてみました。その時あのヨーロッパの旅行の強烈な体験から向いているのではないかと思い旅行会社を志望しました。その時は、第一次オイルショク後の未曾有の大不況(しかしバブル崩壊後の方がもっともっとひどい)で、就職難(学校の成績も悪かったので余計)でしたが何とか旅行会社に就職することが出来ました。そこで思い知ったことは、当たり前のことながら自分でお金を払って行く旅行とお金を頂く側としてお客さんと旅行することは全然違うと言うことでした。日程管理、お金管理、交通機関や宿泊施設のトラブル対処、お客さんの健康問題、小は下痢から大は生死にかかわる緊急の病、スリにあった人の現地警察への対応、パスポートをなくした人のその後の旅程の問題と帰国証明の発行などなどとても楽しい旅行などといってはいられない状況でした。

そしてこれとほぼ似た感覚を味わったのが、M-HOUSEをはじめてからです。ただ、今回は異なるところというか、旅行と違うところがありました。最大の違いが、無形のものと有形のものという扱うものの性質の違いではなく、語弊があるのを承知で申し上げさせていただければ、分相応でない場面に遭遇することが多いということです。旅行の場合は、無理をしてファーストクラスに乗る方や、スイートルームに泊まる方はいませんでしたが、クルマの場合は、いかなるクルマでも外車に乗るということはお金がかかるというあたり前の事実が軽視ないしは無視され、購入するのに一杯一杯で本来必須である整備まで手が廻らない、それで仕方がないという方が多々おられることです。
ポルシェ、ナローに関して持てるものすべてを出して、多くのオーナーの方の楽しいナローライフのお手伝いが出来ると考えていましたが、現実には、そういう方々は非常に少ないのが実態でした。


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